リストランテ チェレスティーナ 豊中市本町6丁目8-9 TEL06-6855-8617

郷愁のイタリア物語

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フィレンツェでのひとつの思い出

1983年の春。イタリアへきて9カ月、初めて働いたペルージャにあるイル・モリーノというレストランで半年が過ぎ、そろそろ違う店で仕事がしたいなぁーと思い始めた頃、日本にいる知人から「イタリアへツアーで行くので案内してくれないか」と頼まれフィレンツェの街へ…。

その夜のディナーは、あの有名な“フィレンツェ サバティーニ”。
小さな入口より店の中に入ると、広々としたクラシックな店内。その中で背筋を伸ばしてきびきび働く初老のカメリエーレ(サービスマン)、かっこいい…。
この店で働きたいなぁー。一か八かお願いしてみよう!と思い、店長らしき人へ声をかけてみると、明日の昼休みにシェフとオーナーが話を聞いてくれるとの事。

翌日行ってみると、奥の一室に通されて面接。今までにない緊張の中、これまで働いていた事、何をしたくてイタリアへ来たのか、給料はいらない、アパートは自分で探すので勉強させてもらいたい…と伝えた所…OKをもらえました。

その時の嬉しかった事!何か一歩前に進んだなぁ…漠然とそんな思いがしていました。

順調に働き始めて3ヶ月目の夏休み期間の事。「調理場のスタッフが順番に休みを取るので、炭火焼きの担当をしてくれないか。その代わりにこれからは給料を50万リラ(約15万円)払うので…」やったね。これで食べ歩きができる…。

いつも熱い炭火の前で仕事をしているある日、一つの事件が…。
その日、調理場の掃除をしているアフリカ系のお兄ちゃんが、なぜか私のところへ何度もやってきてちょっかいを出し、日本の悪口を言い始めました。喧嘩も売り始めたので…私も頭に血がのぼって軽く手をあげてしまった。

今思えば、日本の悪口を言われたら本気で頭にくるし、やっぱり日本人だからと言い訳しながらも、イタリア語で口論出来るようになって調子にのっていたのだと思います…。あちゃ~やってしもた…。これだけよくしてもらっていて迷惑かけてしまった。やっぱり辞めるしかないなぁ…。もっと冷静に判断していればなぁ~と反省。

その日の仕事終わりにシェフロマーノの部屋へ入っていくと、シェフもその事は知っていて、彼は背中を向けたまま立っていました。…シェフロマーノ…と声を掛けると、5秒ほどの沈黙…。

背中をそむけたまま一声、「A DOMANI」また明日…

楽しかったフィレンツェでの一番の思い出となりました。

ヴェネツィアでの思い出のレストラン

1983年の秋口、イルモリーノ、フィレンツェサバティーニとクラシックな料理を勉強 させてもらっていた頃、イタリアではノーバ・クッチーナ(新イタリア料理)を出す店がミシュランの3つ星2つ星を取って話題になっている、と耳にしまし た。ノーバ・クッチーナを言葉で表すと、(クラシックなイタリア料理+フランス料理+日本料理)÷3=新イタリア料理となります。

その頃の日本はバブル期の始まりで、ミラノファッションをはじめいろんな情報が日本に入り、イタリアにおいても世界のいろんな物を取り入れようと言う情報化時代。料理界の動きも例外ではなかったようです。

“よし、今度は北イタリアへ向かってノーバ・クッチーナを見てみたい…”
その時ペルージャで知り合ったコック仲間から、ヴェネツィア近くの古都ストレーサーという街に1つ星の“エミリアーノ”というその街では有名な店があっ て、以前日本人も働いていたみたい。ただ観光地なので、ビザがなければ働くのは難しいと思う…と情報が入ったので、まずはストレーサーの街に行ってみよ う!

ストレーサーの街には大きな湖があって、古い街並みと新しい建物がうまく共存した北イタリアでは有名な避暑地です。ストレーサーの小さ な駅から湖に向かい、その横道を重たいスーツケースとセカンドバックをもって歩いて行くと、あった!おしゃれな近代的なビルの一階にリストランテ エミリ アーノ…

リストランテ エミリアーノは体重100キロはあろうかという60才前後の頑固そうなエミリアーノシェフとその息子が二人で調理場 を、娘さんとその友人と奥さんの女性3人でホールをしているアットホームなレストランです。その日、早速昼食をいただき、食事の後にエミリアーノシェフの もとへ。
“ペンションは自分で見つけるし、無給でよいので1カ月だけでも研修させてくれないか…”と頼んだ所、“以前外国人を雇った事があったがトラブルが何回かあって、もう外国人は雇わない事に決めているのでダメ”、と断られてしまいました。
その日はもうだめかと少し落ち込んでストレーサーで1泊、次の日にもう一度、厚かましく頼んでみようと昼食をいただいた後、エミリアーノシェフに“この店 の料理は今まで私が見てきた料理と違っている。この店の料理法や食材に大変興味があり見てみたい。なんとか1週間でも結構ですので勉強させていただきた い。”と再度お願いしたら、“君の気持ちは分かったので一週間だけだぞ”、という約束で働き始める事が出来ました。

リストランテ エミリアーノでは、今まで作った事のないフォンドボーを使ったワインソースやムース系の料理がいろいろあり、何だか田舎から東京に出てきたような、そんな感じに似た気持ちになりました。
ある日、“コーサック、この肉、今フランスから空輸で届いた骨付きの仔羊だけど少し味みてみるか。”と焼いてくれたので味をみました。“うまい・・・”心 の中であと2回“うまい、うまい”初めて食べたピンク色の乳しか飲んでいない仔羊。「これが本物かー」 今でもその味はしっかり覚えています。私もお返し に、日本料理の刺身や寿司、天ぷら、すき焼きもどきなどを作ってみたりもしました。

エミリアーノシェフとの会話の中で今でも覚えているのが、“コーサク君は崇拝している宗教は何かあるのか”と聞かれた時の事です。
“日本人全体に言えることかもしれないですが…仏教の教えが日本人のベースになっているとは思います。でもイタリア人のように週に一度教会へ行く事もない ので、宗教の教えによって自分の考え方を決める事はないと思います。日本にはいろんな宗教が入ってきていて、いろんな考え方の人がいますが、無宗教と言え る人も多いと思います。”と答えたら“そうか…実は私も無宗教なんや…”と聞かされたのです。
“そうなんや、イタリア人にも無宗教の人はいるんや…”と心の中で思い、続けて彼は“私たちの仕事は自分自身で勉強して努力して切り開いていかなくてはい けない。どの世界でも一緒かもしれないが、他人よりも少しでも頑張って認めてもらえるように目標を持ってがんばりや!”
当時24才の私は、“確かにその通りや…一流のシェフの言う事はすごいなぁ”と刺激を受けた事もありました。

そしてあっという間に時間が過ぎてしまい、1週間だけの約束で研修させていただいていたはずなのに、気が付けば2カ月もお世話になってしまっていました。
その最終日、エミリアーノシェフ曰く、“別の格上のレストランでも働きたいだろう。2カ月間一緒に仕事してくれたから、次の店は私の友人の店を紹介してあ げる。ミラノの3つ星マルケージがいいか、それともフィレンツェの2つ星(現在3つ星)エノテカ・ピンキョーリがいいか。どっちだ?”
“エッエエ…どちらも本を出しているし、今やノーバクッチーナのトップをいく店、本当に紹介してもらえるのですか…”自分の耳をそう疑った位びっくりしました。
マルケージは何人もの日本人が既に働いているので、エノテカ・ピンキョーリを紹介してもらう事になり、その場でサーッと紹介状を書いてくれて、“明日にでもピンキョーリ氏に連絡入れておくので、よろしく伝えておいてくれ”との事。

そして、お礼の気持ちを伝えて帰ろうとした時、“2カ月間もペンションを借りていたら、だいぶお金を使っただろう、いくら払った?”と聞かれ、“53万リラ(約16万)を払いました”と答えると、小さな金庫から封筒を出して、“これもって行き!”

“そ れはダメです!無給で働くと約束して勉強させていただいたのに、それは受け取る事は出来ません!気持ちだけ受け取ってお返しさせていただきます。”と、答 えるとシェフが続けて、“実は私も若い頃フランスに修業に行った事があるんだ。イタリアとフランスといっても言葉も違うし、色んな差別を受けた経験もあっ て、
少しは苦労した事があるんだ。君を見ていてその時の自分と重なる所があった。
息子も刺激になっただろうし、遠慮する事はない。持って行きなさい…”と言ってくれました。ここでもう一度断る事が出来ず、甘えて受け取る事にしました。

そしてペンションでその封筒を開けると、その二倍の100万リラが入っていました。エミリアーノ氏の心の広さを感じながら再びフィレンツェの街へ向かいました。

そ れから4年後、トレンティーノにあるカバーロビアンコと言うレストランで先輩家族が住み込みで働いているので食事へいった所、エミリアーノ夫婦が食事に来 ているよ、と教えられました。なんたる偶然!嬉しくてエミリアーノ夫婦のテーブルへ挨拶に行くと、100㎏近くあったシェフの体重が70㎏位になってい て、“痩せたなぁ…。”と思いました。その後おかげさまでエノテカ・ピンキョーリで働けた事などの話をしていたら…“実は私はその後体調を崩して、病院へ 行ったらガンと診断されて今治療中なんだ”との事を伝えられました。“もう会えないかと思っていたからここで会えて嬉しいよ…”何て答えたらよいのか… “何を言ってるのですか、いつか京都へ行って舞妓さんも見たいし温泉にも入りたい…。その時は私が案内すると約束したではないですか。頑張って病気に勝っ て京都でまた会いましょう…。”
食事を終えてエミリアーノ夫婦に挨拶に行くと、最後にエミリアーノシェフがひと言、“コーサック、私はやっぱり無宗教だったから病気になったのかなぁ…”

それから2年後、イタリアより1通の手紙が届きました。エミリアーノシェフが亡くなったとの事。いつもリストランテ エミリアーノのテーブルを飾っていた、トゲのないバラ100本とお悔みの手紙を送らせていただきました。
私に料理と人生論を聞かせてくれた忘れられないシェフの一人となりました。

思い出のレストラン

イタリア滞在も2年が経ち、イタリアで生活する事だけは何の苦労をする事も無く、同業者の先輩や友人にたまに会い楽しく過ごしていた頃、ふと何か物足りない気持ちになる事が多くなりました。それはきっと仕事の面の事で・・・。何軒もの素晴らしい店と巡り合い、いろんな料理を見せてもらい、お世話になり、満足している事には間違いないのですが、日本で3年あまりしか働かずに若くしてイタリアに来たので、技術的な事、料理に対する知識、幅、深さが未熟で、しっかりとした基礎、それを踏まえた応用が全くできていない事に気付いたのです。

今となっては財産のひとつになっているのですが、今、日本を代表する有名シェフ達ともその頃会う機会が多くありました。彼らの話を聞くと、一軒の店を1~2週間修業させてもらい、何軒かの店を回り、2~3ヶ月で日本に帰っていました。イタリアの店は、その店の看板メニューやスタイルがほぼ決まっていて、同じ料理を提供している店がほとんどだったので、ベテランのシェフは長く働かずとも短期間で学んでしまうのだそうです。

でも今の私の実力では、ひとつの料理を見たらノートにまとめて次の料理へと、1×1=1にしかならない・・・それではいけない、1×1=2にも3にもならなくては、このままイタリアに何年もいても進歩がない・・・出した答えは、一度日本へ帰ろう。日本に帰ってしっかりと基本を身につけて、今の日本の現状を見てもう一度イタリアに戻ってこようと決めました。その時には自分の料理に自信を持ち、イタリア人シェフとも対等に仕事ができるようになって帰って来ようと・・・

帰国後働くなら日本一と思えるレストランで働きたい・・・と東京へ。

初めは六本木のレストラン“ハナダ”。この店は現代的なおしゃれな芸能人が多く訪れる店で、ここでは半年間働きました。

2軒目がリストランテ・サバティーニ青山。この店のオーナーはイタリア人3兄弟で、初めて店に入った時、「何だこの店は・・・イタリアと同じ風が流れている・・・」客単価も高く、日本のイタリア料理店では3本の指に入るであろう高級店。スタッフも調理場だけで10名はいるであろう・・・ここに決めた。

早速面接をしてくれたのが、新しくシェフになったばかりの6才年上の伊藤シェフ。この伊藤シェフが大変怖い顔をしていて、気が短く、曲がった事が嫌いで大酒飲み。見栄っ張りで、でも仕事が出来る人。結果的には大変かわいがってくれて、月に1~2回は必ず仕事終わりに飲みに連れてもらっていた、思い出深いシェフとなりました。面接の時に、給料はいくら欲しいと聞かれました。イタリアでの修業の前半はほぼ無給に近く、小遣い位しかもらえない店もあったので、少しは取り戻したい気持ちがあり、「この店で5年間働いている同じ年の人と同じ給料を希望します。」と伝えたところ、「気持ちはわかるけど難しいかもしれない」と言いつつもオーナーへ相談してくれ、OKをもらえました。ただ、同い年の先輩N氏には初めの1カ月間は「生意気な奴やなあ」と思われ、気が合わずにお互いに変に気をつかって仕事をしていました。そんな時TVの取材が入り、料理を作っているN氏が急にマイクを向けられて、あたふた・・・次に私にマイクが向けられたのですが、たまたまうまく答えられて、「同じ様な料理をイタリアではもっとシンプルに調理しています。」などと話が続いて取材は終わりました。すると急にN氏から一言。「やっぱり違うなあ。あんなにうまく話せないよ。これからは対等の立場で付き合っていこう」と言われ・・・以降、大の親友となりました。

それから色々あって、1年半後に伊藤シェフに「イタリアでまだやり残した事があります。もう一度イタリアへ行かせてください。」とお願いしてみたら、「ダメだ。まだ早い。もっとしっかり勉強してからにせよ。」との答え。気持ちのズレを感じたまま、自分でもイタリアに戻る時期を考えつつパスタ場で仕事をしていたある日、青山サバティーニのスペシャルパスタ、伊勢えびのリゾット(当時一皿13200円)を作っている所を伊藤シェフがじ~っと見ていたのです。心の中で、「何見ているのやろ・・・」と思いつつ、その料理をお客様に運んでもらった後、手鍋に少し残ったリゾットを一口スプーンですくって味をチェックした伊藤シェフが、本当に一言だけ「イタリアへ行っていいよ。」と。その瞬間目の前が真っ白になって、頭の先から背中に一本の電気のようなぞくぞくとした物が走り抜けたのを今もよく覚えています。

2度目のイタリア。選んだ店がローマの高級住宅街。生前、オードリーヘップバーンも住んでいたというVIA PAROVI通りにあるローマ・チェレスティーナ。いつも常連客でいっぱいのクラシックなラッツィオ料理を出す店です。「2回目のイタリア、しっかり仕事もしたいと思っているので、ある程度の給料をもらいたい、それが目的で帰って来ました」と、オーナーのマルチェッロ氏に伝えると、「わかった、君を信用しよう。その代わりにメニューを書いてもらう事もあるぞ。」と言ってもらえました。参考までに、日本の給料は年功序列で、若い時は安くても年々上がっていくスタイルが多いと思いますが、イタリアでは若いコックでもシェフクラスでもあまり差がないようです。これもクリスチャンの考え方のひとつで、一人ひとりの人間は対等であるという考え方なのだと思います。

また、少し暇な時間が出来たので、包丁を研いだり鍋洗いを手伝っていたら、本気で怒られた事がありました。洗い場のおじさん曰く、「コックは料理を作るのが仕事。私は鍋を洗うのが仕事。君が鍋を洗うと私の仕事が無くなるではないか。」と。包丁も、月に一度包丁研ぎの人が来て研いでくれるシステムになっていて、私が自分の包丁を研ぐ事は、他人の仕事を取る事になる・・・どんな仕事でも皆プライドを持って仕事をしているのだなあと強く感じました。

ある日、チェレスティーナローマの常連さんから呼ばれ、日本料理を食べたいとの依頼があり、すきやき定食を作ってみました。これがまた評判が良くて、グランドメニューにのる事になり、それだけでは寂しいという事で、水炊き定食、ちゃんこ鍋、牛丼などもイタリア語メニューと一緒に載せてもらった事もありました。

またある日、マルチェッロ氏に声をかけられて、「コサーク、車に乗れ。私の馬を見に行くぞ。」イタリアの高級レストランのオーナーは、昔ながらの裕福な貴族の人が多く、地元の警察などとも繋がりがある人が多いとのこと。そのおかげで労働ビザの無い私でも働く事が出来ているのだと思いました。「いいか、コサーク。いずれ君も自分で店を持つ時が来るかもしれない。確かに一生懸命がんばって店を繁盛させる事は大切なことだけれど、自分自身が楽しめる時間を作る事、これも同じ位大事な事なんだぞ。」と、自分の馬を見ながら話してくれました。確かに馬ってスタイルが良くてかわいいけど・・・自分の馬は持てないなー。大きな犬ならなんとかなるかもしれないけれど・・・と思いながら。

ローマ・チェレスティーナで働き始めて3カ月が過ぎようとしていた頃、またマルチェッロ氏より声をかけられて、「コサーク、車に乗れ。出掛けるぞ。」と。また馬を見に連れて行ってくれるのかなあ、それとも近くの山へキノコ採り、などと考えながら車に乗ると、病院の様な所に連れてこられて、血液検査をして来いと言われたのです。言われるままに健康診断をして車に戻ると、「コサークは初めて会った時にイタリア人と対等に仕事が出来るようになりたい、それが今の自分の目標だと言ってただろう。私が保証人になって健康保険にも入って、労働ビザを取る手続きをしたから・・・これで堂々と働けるし胸を張って道を歩けるなあ。これでイタリア人と同じだね・・・。」

その時に一つの事を心の中で決めました。もし、自分の店を持つ事が出来たらチェレスティーナという名前にしようと・・・

時が過ぎ、1991年の春、「ひとつの君の夢がかなえられた事を嬉しく思います。今まで巡り合えた人々に感謝の気持ちを忘れずに」というマルチェッロ氏の祝いの言葉と共に、豊中の中桜塚にリストランテ チェレスティーナをオープン。その時来日して、写真を楽しそうに撮ってくれていました。

そして1年前には本町の店の方にも来てくれて、私たちの料理を食べながら、「私はこんな料理は教えてないぞ、でもおいしい・・・このミネストローネはもっとトマトの味が濃い方が良いよ。」などと指導を受けました。今でも、いつまでも私の師匠なんだなあと、心の繋がりを嬉しく思いました。

最後に、「私ももう年だから、日本に来るのは最後かも知れない。次はローマの我が家で会おう・・・」と。

シェフからのこぼれ話

「2015/2/1(日)放送の、日本テレビ『それっていつから?ヒストリー』という番組で、『いつから日本人はフォークとスプーンを使ってパスタを食べるようになったのか』を紹介したいので、教えていただけないでしょうか。」と、12月の中旬に突然取材の電話が入りました。その時に、今まで勉強してきた事を思い出しながら答えてみましたので、少しまとめてみたいと思います。

時は世界的に産業革命が始まりかけた頃、新天地を求めてアメリカという新大陸にイタリア人(特に貧しい土地柄のナポリを中心とした南イタリア人)が夢を求めて移り住み、生活を始めました。その時代のイタリア人の食事メニューの代表であったものは、今も頻繁に食卓に出されるミネストロ-ネ(野菜入り)スープ。ミネストローネスープは地方によって特徴がありました。野菜と一緒に北の人は米を入れ、中部の人はパンを入れ、南の人はパスタを入れて、量を増やして食していたのです。

そのミネストローネスープも一緒にアメリカに渡りました。細かく切ったパスタを入れたスープを、イタリア人がスプーンを使って食べているのを見たアメリカ人も、パスタ入りのスープをスプーンで食べる様になり、そして時は流れ、ロングパスタを食べるようになっても、フォークと一緒にスプーンも使って食べていた、というのが元々の始まりのようです。なので今日本にあるスープスパゲッティ(スープパスタ)などは、イタリアにはありません。スープスパゲッティは、アメリカで生まれ、日本に伝わった一皿なのです。

では、いつ頃から日本でパスタ料理が食べられ始めたか、というと・・・そのきっかけとなったのが1970年の大阪万博でした。その大阪万博で、いろんな国の人々が日本へやってきました。『日本らしさがあって、外国人にも喜んでもらえる料理』として考え紹介されたのが和風スパゲッティでした。その頃、アメリカの影響の大きかった日本は、アメリカ人の真似をしてフォークとスプーンで食べる料理だと思い込んでしまい、その習慣が今でも残っているのでしょう・・・と答えました。

最後に個人的な意見として、日本では食べやすい様に食べてもらったら良いと思います。イタリアへ行った時やイタリア人と食事をする場合は、フォークだけを使い皿のふちで巻きつけて食べてください。短くなったパスタはパンを使って寄せてフォークで食べます。そして、パスタをソバの様にすすらないように食べてもらいたいのです。あまり細かい事に気を遣わないイタリア人なのに、なぜかパスタを食べる時はマナーを気にするみたいです。

イタリアにいる時に見た4コマ漫画で今も覚えているのが、レストランの店内の会話で、
「日本人の団体客が店に入って来たぞ」
「みなパスタ料理を注文した」
日本人客が一斉にパスタを食べ始め、ズルズル~、ズルズル~
イタリア人の店長が一声、「誰だ!営業時間に掃除機をかけたのは!」だって。

☆カーナビで電話番号検索した場合は、旧住所が案内される場合がありますので住所で検索下さる様お願いします。 TEL 06-6855-8617(要予約) 定休日 毎週火・水曜日(大阪府豊中市本町6丁目8-9)

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レストラン チェレスティーナ

TEL 06-6855-8617(要予約)

カーナビで電話番号で当店を検索した場合は、旧住所(中桜塚)案内されるか、見つからない場合がありますので住所豊中市本町6-8-9)で検索下さる様お願いします。
■大阪府豊中市本町6丁目8-9
(阪急豊中駅より徒歩10分 梅花学園前バス停近く)
●営業時間
11:30~14:00(L.O.)閉店14:45
17:30-21:00(L.O.)閉店22:00

●定休日
毎週火・水曜日
※ただし、ランチタイム…大人8名様以上、ディナータイム…大人6名様以上で、ご予算をお伺いした上おまかせ料理であれば、定休日でも営業致しますので、ご相談ください。お子様のご来店もOKです。
●席数
テーブル席12席

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